破壊された首里"空からの記録"

琉球王国の栄華を象徴した首里城を捉えた記録映像が見つかった。80年前の1945年、沖縄戦で米軍が撮影した記録映像フィルムだ。無残に破壊しつくされた首里、映像から沖縄戦の実相を読み解く。

映像に映し出された白い瓦礫(がれき)の山。そこにかつての城の姿はない。龍の頭の形をした池「龍潭(りゅうたん)」がなければ、この場所が首里城であったと誰が気づくだろうか。

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首里の上空をとらえた記録映像の謎

沖縄戦の最中、米軍は同行カメラマンによって戦場を記録映像し続けた。膨大な映像記録映像はアメリカの国立公文書館などに保管されており、沖縄県民有志による「1フィート運動の会」(正式名称:「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」)が寄付を募り少しずつ購入し沖縄で公開を続けてきた。

今回発見された空撮映像は、これまで撮影地が特定されていなかった。

「龍潭の形からして、確実に首里です。これは大発見です」と話すのは、元沖縄テレビプロデューサーで映画製作者の山里孫存(やまざと・まごあり)さん。沖縄戦研究者の上原正稔(うえはら・まさとし)さんとともに長年米軍のフィルム映像の検証を続けてきた。

これまでにも、井戸から救出される住民の映像が宜野湾市我如古(がねこ)のものと特定し、地域での上映会を通じて映像に映る姉妹が当時の着物を保管していたことを突き止めるなど多くの発見に寄与してきた。

変わり果てた市街地

沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長も映像に衝撃を受けた。「石灰岩の上に建てられていた首里城の基礎がむき出しになっているのが明らかになる」と解説する。

今回の映像には、廃墟と化した首里の街が白黒で広がる。手がかりとなったのは、戦前から形を変えず残る龍潭だった。

現在の首里城との位置関係と映像を照らし合わせると、首里城があった場所が広くさら地になっていることがわかる。

山里さんは「首里城や第32軍司令部壕がこの下にあるという意識で、ピンポイントで撮影されたのではないか」と推察した。

焼け落ちた学び舎と歴史

フィルムにはほかにも貴重な記録映像が収められていた。当蔵通り周辺や白く抜けた敷地は、沖縄師範学校の跡地だという。

沖縄県平和祈念資料館友の会の仲村真事務局長は「現在の首里高校の前身・県立第一中学校(旧一中)も映っている。生徒たちは鉄血勤皇隊や通信隊として戦場に動員されていた。戦後の首里には首里教会と一中を除き、何も残っていなかった」と語る。

沖縄戦研究者の石原昌家・沖縄国際大学名誉教授も映像の意義を強調する。「32軍司令部壕がこの地にあるのは米軍も把握していた。だからこそ首里は集中的な攻撃対象になった。これほど明確に動きが映された首里周辺の映像は初めてです」と述べた。

首里を放棄し南部へ 住民の被害拡大へ

1945年5月22日、日本軍第32軍は首里の司令部を放棄し沖縄本島南部へ撤退。これにより兵士たちとともに、避難民までもが南部の戦火へと巻き込まれていった。

今回の映像は、破壊され尽くした首里城の姿とともに街と命が奪われた沖縄戦の深い爪痕を今に伝えている。

過去を映す記録映像が、未来への問いかけに

戦争を知らない世代に、沖縄戦の実相をどう伝えるか。記録映像の中には、撮影時期や場所が特定されていないものも多く、いまだ未活用の貴重な証言が眠っている。

白いがれきに覆われた首里の丘と、その中で不変の姿を保つ龍潭。時を超えて姿をとどめるこの池は静かに、しかし確かにあの日の記憶を語りかけてくる。

戦世を生き抜いた人々の記憶が薄れゆく今こそ、こうした記録映像が持つ意味は一層重みを増している。

(沖縄テレビ)

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